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宗教研究と社会学
マックス・ミュラーが提唱した、今日における「宗教」の存在意義に関する経験的・実証的研究は、同時代に登場した人文学系の諸学問と連動するかたちで発展していきます。前回の授業では心理学と結びついた研究成果を紹介しました。今回は宗教の社会学的研究について紹介しましょう。
宗教社会学という言葉は、宗教心理学や宗教人類学よりもはるかに一般的に使われる熟語です。心理学はむしろ宗教とは結び付きにくい言葉ですし、人類学では文化人類学といった熟語のほうが一般的です。
これはたぶん、社会学的な視座からの宗教研究が、一時期宗教研究の主流になったからでしょう。現在では文明論や文化論と結びついた宗教研究が主流になっていますが、社会学の創始者と呼ばれるような人たちが、こぞって宗教に関心を寄せたことも一因となり、とくに日本では一時期「宗教社会学」という言葉をタイトルに加えた著作が数多く出版され、独自の研究分野が成立しました。
これらを簡単に整理すると、次のようになります。
宗教の存在意義の社会学的研究では、宗教と社会の相関関係が問われます。つまり、「なぜ、宗教が存在するのか」という問いに社会の分析から答えようとする研究がなされました。
大規模な共同体を維持するために複雑な制度やシステムを組み込んだ、高度に発達した社会とともに在ることが、他の動物と人間を区分する最大の特徴のひとつです。このため、社会の起源を解明することによって宗教の起源を探求する研究は、人間の本質を探る問いとも分かちがたく結びつくことになります。
➡人間とは/社会とは/宗教とは、という問いの相関関係
また、宗教を歴史の動態の源泉と見なす研究では、人類の歴史を動かしてきた宗教の役割に焦点が置かれます。この場合に、宗教の役割をネガテイブに見るか、ポジテイブに捉えるかによって見解が分かれます。さらには、宗教団体は社会を構成する一要素であると考えて、社会集団としての「宗教」の特質を明らかにするような研究もなされました。
この授業では、これらの分野の代表的な業績を紹介しましょう。
宗教の社会的起源の探究
まず、宗教の社会的起源を探究する研究では、エミール・デュルケームの『宗教的生活の原初形態』(1912)が有名です。デュルケームは、コントによって提唱された社会学を独立の学問分野として成立させた立役者の一人であり、現在に連なる社会学の生みの親といえる人物の一人です。
デュルケームは、個人の意思を超えて人々の行動を規定する「社会的事実」について、従来とはまったく異なるアプローチから研究しました。たとえば、著名な『自殺論』では、統計資料をもとにヨーロッパ各国における自殺率の比較を行ない、自殺のような極めて個人的な行為にも、実は社会的要因が強く作用していることを証明しました。
こうした社会的事実の背景にある集合的意識を解明するために、デュルケームが注目したのが宗教でした。主著の一つである『宗教生活の原初形態』において、デュルケームは、宗教とは社会におけるある種の集団表象であり、宗教的象徴が人々を惹きつける力は社会そのものに根ざす力であると同時に、社会そのものが宗教的象徴の凝集力に支えられていることを見事に説明していきます。
この際、デュルケームは身近なヨーロッパの宗教事情ではなく、オーストラリアの先住民のトーテム崇拝を分析の対象にしました。当時、現存するもっとシンプルな部族社会の一つとされていたオーストラリア原住民のトーテミズムを考察の対象とすることによって、デュルケームは人間社会と宗教の最も原初的な関係を分析し、宗教の社会的起源や機能を解明することを目指します。
そのなかで、最も重視されたのが「聖と俗」の二分法です。トーテミズムは、ある特定の社会集団と特定の動物や植物、あるいは鉱物といった「トーテム」との間に儀礼的で神秘的な関係を取り結ぶ宗教文化です。トーテムはしばしばその部族の「始祖」と考えられ、創世説話と結びつけられます。トーテムはさまざまなタブー(禁忌)をともない、しばしば自分のトーテムを殺したり、採取したり、食べたりしないという禁止事項が順守されます。デュルケームは、ここに人々の行動を強制するある種の「力」が働いているとし、これを「マナ」と呼びます。このマナ/力は、幻想ではなくて人々の行動を規定する現実的な力です。
たとえば、宗教的な聖地などにはよく結界が張られています。これらは、バリケードのような障害物であることもありますが、ほとんどは細い縄が張られている程度の簡単なものです。誰でもその気になればすぐに乗り越えられますが、実際に平気で前に進むことはできません。
身近なところで言えば、教会本部の神殿の結界を思い浮かべてください。たとえ未信者の方であっても、あれを簡単に踏み越えられるでしょうか? 物理的には簡単に乗り越えられますが、実際にはそこに見えない壁があります。しかも、その壁は決して単なる心理的な障壁ではありません。デュルケームは、この見えない力の源を「聖/俗」の区分に見いだし、これを宗教の本質と考えます。そして、この聖俗区分の社会的起源を探求しました。
トーテミズムは、トーテムという物質的な存在に象徴される非人格的な力(マナ)に対する信仰ですが、その力の源泉は「社会」であり、トーテムは社会の象徴/「旗」であるとして、社会の結合力の源泉としての宗教の役割を強調し、有名な「宗教は社会の仮想の礼拝である」という言葉を残しました。
しかし、宗教あるいは神への信仰の源泉を社会と見なすことは、宗教の否定論でも無神論でもないことは銘記すべきでしょう。
社会的存在であることは人間の本質の一つと言うべきであり、宗教が社会の源泉であり、社会関係が宗教的力の源泉であるとすれば、宗教的であることは人間の本性の一つである、ということになります。このため、一時期デュルケームの宗教論について、宗教を社会に還元して理解しようとする還元論であると批判する人もありましたが、近年の進化心理学的な宗教研究では、社会的存在としての人間と宗教の起源を結びつけるデュルケームの宗教論は、あらためて脚光を浴びています。
➡宗教研究に社会学的方法を適用し、宗教研究に科学的な基礎づけを付与した名著
宗教と歴史の動態
宗教を歴史の動態と関連づけて分析し、人類史における宗教の役割を論じた研究では、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)が最も有名です。これも宗教学科の皆さんに、在学中に必ず手に取ってもらいたい一冊です。
ヴェーバーは、近代社会における資本主義の成立をもたらした歴史的動因として、プロテスタンティズムの倫理(エートス)を分析します。特にアメリカにおける資本主義経済の目覚ましい発展と社会生活の合理化に強い刺激を受けたヴェーバーは、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズムの宗教倫理から生じた世俗内禁欲と人々の生活の合理化であると考えました。
社会科学的な歴史分析の古典中の古典である本書は、発表と同時に大きな反響と論争を引き起こすことになります。とくに、マルクス主義の「宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される」といった議論や「宗教は民衆のアヘンである」とする唯物史観に反論する材料を提供してくれたことは、神学者を含む宗教研究者に大きな刺激を与えることになりました。
ある意味では、ジグムント・フロイトの精神分析に基づくネガテイブな宗教論とウイリアム・ジェイムズの宗教経験の心理学的分析の関係に、少し似ているかも知れません。
歴史を作るのは一人ひとりの人間ですが、その行動にはそれぞれの理由があり、動機があります。ヴェーバーは、人の行動に理由を与えて歴史を生成する「心理的起動力」を「倫理=エートス」と呼び、近代資本主義の形成過程における宗教のポジテイブな役割を強調しました。
しかし、「資本主義の精神」と「プロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)」の相互関係を指摘するヴェーバーの分析は、キリスト教の信仰が近代資本主義をもたらしたというような、単純な影響関係を論じたものではありません。ヴェーバーが指摘しているのは、キリスト教が資本主義の思想的なルーツであるということではなく、特定のプロテスタント信仰者たちに固有の生活様式が、近代資本主義の形成に影響を及ぼしたという社会的・歴史的事実です。キリスト教と近代資本主義という、本来なら交わらない水と油のような存在が、社会的次元で結びついていることを明らかにしたことが、マックス・ヴェーバーの最大の功績だと言えるでしょう。
ヴェーバーは本書を刊行したあとで、宗教倫理と経済活動の社会的次元における関係の分析を世界史全体に拡大し、「世界宗教の経済倫理」を明らかにするという壮大な構想を持っていましたが、スペイン風邪による肺炎のために世を去り(1920年/56才)、この研究は未完に終わります。
しかし、ヴェーバーが宗教倫理の分析を行なった日本を含む地域では、とくに自国社会の近代化を推進しようとする近代主義者たちによって、ヴェーバーの分析が広く取り入れられていきました。日本でも丸山真男や大塚久雄といった思想史家や社会学者たちに大きな影響を与え、ヴェーバーの歴史的・社会的分析をもとにした日本の社会や文化、日本の近代史の研究が広くなされるようになります。ある時期には、日本の宗教研究者のほとんどが、マックス・ヴェーバー研究者(ヴェーバーリアン)であるというような状況でした。
かく言う私自身もこの系列の研究者であり、論文や著作もいくつか発表しています。授業ではあまり詳しく語る余裕はありませんが、また何かの機会に紹介することにしましょう。
➡宗教研究に関心を持つ人の必読書
社会集団としての「宗教」の研究
最後の「社会集団としての宗教」の社会学的な研究を代表するのは、ヨワヒム・ワッハの『宗教社会学(Sociology of Religion)』(1940)です。この系列の宗教社会学は、宗教集団をさまざまな社会集団と同様に社会内に存在する集団の一つと見なし、宗教集団/教団に固有の性質や特徴について論じる営みです。
宗教を人間心理や社会的事実、文化現象などと切り離して、宗教現象の固有性を強調するシカゴ大学の神学者や宗教学者たちを中心にした宗教研究の手法を社会学的な宗教研究に反映させた古典的な名著です。古い日本語訳はありますが、簡単には手に入りません。英語の原書にチャレンジするのには最適な本の一つです。ちなみに、私が初めて英語の原著を読んだのはこの本でした。その後の留学中の苦労を考えると、とても読みやすい本だったと思います。
確かに宗教集団には宗教集団に固有の組織原理や構造があり、一般企業や地域社会、学校や任意団体などと共通している部分もある一方で、やはり本質的に固有の側面を持っています。
たとえば、リーダーの資質なども一般的な社会集団における統率者の資質と宗教集団における統率者の資質は微妙に異なります。また、人と人をつなぐ原理も他の社会集団とは違って、雇用関係や地縁・血縁関係などとは異なる原理が相互の関係性を形成します。ただし、宗教集団も形骸化すると血縁や学歴などの一般の社会集団と同じ原理がカリスマの継承に使われ、宗教集団にも一般企業の雇用関係と同じような組織制度が持ち込まれるようになる、といったワッハの宗教集団の分析は、現在でも傾聴すべきところがあります。
➡合致的宗教集団と特殊的宗教集団、支配の諸類型をベースにした宗教的指導者の類型など。
ワッハが先駆者となった宗教集団論や教団論の研究は、とくに神学者や特定の教団関係者を中心にした宗教研究者たちに受け容れられ、多彩な教団調査や宗教集団と社会の関係に関する研究、さらには宗教の社会貢献などについての研究につながっています。こうした社会集団としての宗教の研究は、狭義の宗教社会学と呼ぶべき研究分野です。
※こうした社会学的な視座からの宗教研究は、一時期宗教研究の花形でしたが、現在の宗教研究の主流は、やはり文化研究です。次回は、文化人類学や民俗学と結びついた宗教研究について紹介します。
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