「他者」の発見と「宗教」概念の成立
前回の講義では、この授業科目の全般的な概要を説明し、西洋近代の文明圏において成立した「宗教」という概念とそれに伴って成立した「宗教学」という学問を学ぶことの意義について説明しました。最初の時間は大まかな授業の概略でしたが、今回の講義からは具体的な内容を学んで行きます。まず基本的な出来事や人物の名前、概念や用語などを覚えるようにしてください。
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今回の授業でまず覚えてもらいたいのは、「十字軍」や「ルネサンス」といった歴史用語と「宗教」という概念の関連性についてです。
中世のヨーロッパは、基本的にキリスト教がすべての基準となる社会でした。神の権威のもとで王政が維持され、倫理の基準や美の基準、世界観や死生観が形づくられていました。何か新しい発見や考え方が生まれても、その正しさを決定するのは常に神の権威でした。こうしたなかでは、キリスト教以外にも正しさの基準となる尺度は存在しえません。
つまり、キリスト教も仏教も天理教もみな「宗教」であり、その教えを信じる人々にとってはそれぞれが正しさの基準となる、といった考え方はあり得なかった、ということです。現在の感覚でいう「宗教」という言葉の意味や概念が形成される地盤は、中世のヨーロッパには存在しませんでした。こうした中世のキリスト教世界の安定を揺るがせたのは、さまざまな「他者」との出会いでした。
とくに大きな影響を及ぼしたのは、7世紀の初頭(610年頃)にムハンマド/マホメットが神の啓示を受けることよって広まったイスラームの勢力との対峙でした。イスラームは、キリスト教の「他者」というよりは、むしろ兄弟や従妹のような存在と考えるべきでしょう。教えや生活規範などは大きく異なりますが、礼拝対象となる神は共通しています。
それでも、現在の中東地域からアフリカの北部、イベリア半島までイスラームの影響圏が広まると、キリスト教にとって大きな脅威になりました。とくに、聖地とされるエルサレムを奪還するために、十字軍と呼ばれる遠征が幾度もくり返されます。
しかし、西洋のキリスト教文明圏の影響力が拡大することはありませんでした。むしろ、イスラームの文化圏に広く受容されていた古代ギリシャやローマの文明の価値に、それらをすでに失っていた西ヨーロッパのキリスト教文明圏の人々は気づくことになります。当時、現在の西洋文明の源となる知的源泉は西欧のキリスト教圏ではなく、むしろアラブのイスラーム圏に残されていました。
かつて、イランの大学へ留学していた研究者に伺ったことがあります。それによると、イスラーム圏では哲学の科目に西洋哲学史とイスラーム哲学史の区分があり、西洋哲学はソクラテスからはじまり、イスラーム哲学はアリストテレスを始原とし、より科学技術や実践的な学問との連続性が強調されるそうです。
あまり詳しい説明をする紙幅はありませんが、十字軍による東西文明の交流が、西ヨーロッパの世界では忘れられていた、キリスト教以前の古代ギリシャやローマの文明の再発見につながりました。そして「ルネサンス(文芸復興)」と呼ばれる、古典古代の文化の復興運動が起こります。ペトラルカのような人文主義者(ユマニスト)たちは、神の権威を絶対化する中世の価値基準から脱却し、古典古代の人間中心的な価値観をもとにあらゆる判断の基準を見直そうとしました➡神中心の文明から人間中心の文明へ・・・
神の権威ではなく、人間の理性に信頼を置く思想の広がりは、エラスムスのような人文主義者/ユマニストたちの批判的な信仰論を経て、プロテスタントの宗教改革へとつながっていきます・・・「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」
さらには、レコンキスタ(失地回復)のスローガンのもとで進められた十字軍の進軍によってイベリア半島が奪還され、西欧にとってもう一つの世界への入り口が開かれます。さらには、ローマの権威からある程度独立した王政国家が各地に生まれてきました。
とくに、いち早く地中海から飛び出したスペインとポルトガルの人々は、アジアとの航路を開き、さらには新大陸を発見することになります。大航海時代のはじまりです。
15世紀~17世紀の時期に、外洋に開かれたイベリア半島のスペインやポルトガルを中心に、ヨーロッパとアジアの交流が深まります。
アフリカの南端にある喜望峰を経て、アジアに向かう航路が開かれると、多くの人々が一獲千金を夢見て大海原に乗り出しました。本来なら、地中海と紅海をつなぐ現在のスエズ運河のあたりから出立するのが圧倒的な近道ですが、ここはイスラーム勢力の中心地でした。そこでアフリカを大きく迂回する航路が選択されていました。
航海はとても長く危険な旅でしたが、それでも多くの人々が海に出たのは、アジアとの交易品、とくにインドのスパイスと中国の陶器にヨーロッパの人々が魅了されたからです。危険な航海を乗り越えれば、莫大な富を得ることができました。
イスラームとの交流もそうですが、この時期は西洋よりもオリエントと呼ばれた東洋の文明のほうが、さまざまな面で遥かに優れていました。この講義との関連でいえば、インドの仏教を中心とした多様な精神文化や中国の儒教を中心とした思想伝統のように、ユダヤ教・キリスト教・イスラームといった同一の神を信奉するセム系の宗教伝統とは全く異なる精神文明でありながら、キリスト教やイスラーム以上に長い歴史と深い哲学的思索を重ねてきた思想伝統と出会ったことは、キリスト教中心の世界観や人間観を揺るがし、大きな見直しを迫ることになります。
さらには、喜望峰を回る長い航路を避けるために、地球は丸いという前提で船を出したコロンブスによって新大陸が発見されると、世界地図は一変することになりました。これまで、西洋と東洋しかなかった世界に新しい世界が書き入れられ、新世界に多くの人々が押し寄せることになります。
南北アメリカや南半球の大陸や島々が発見され、マゼランが世界を一周すると、地球は一つの世界であり、そこに住む人間は肌の色や言語、生活様式は異なっていても、同じ地球に暮らす「人間」である、という意識が生まれてきます。
しかし、その一方で新しい文明と出会った人々は一方的に弱者を支配し搾取する、といったことも起きました。スペインやポルトガルによる、南米大陸での略奪はよく知られています。新大陸を発見したコロンブス自身も、その残酷な統治や現地人のへの略奪行為によって、しばしば断罪されています。
こうした新大陸での暴挙は、ルネサンス以降の人文主義(ユマニスム/ヒューマニズム)が広がる西洋文明のもとで深く反省されることになります。目の色や肌の色は違っても、新世界の他者は動物のように扱ってよい存在ではなく、同じ人間であり、宗教的な儀式を含む彼らの文化や生活習慣は、自分たちの宗教伝統と同じように尊重すべき価値がある、と主張する人たちも現れてきます。
しかし、その後アフリカから大量の奴隷が北米に連行されるなど、この頃の「他者」との出会いとともに生まれた「人間/人類」という概念とすべての人間が平等に保持する「人権」という意識が世界に浸透するまでには、500年以上の時間が必要でした。そして、現在に至っても世界人権宣言の精神が、本当に世界の隅々にまで浸透しているとは言い難いのが現状です。
ただ、ここで確認しておきたいのは、こうした「人間/人権」の概念が、いわゆる「宗教」という概念の登場と分かちがたく結びついていることです。
肌の色や言語、生活習慣や価値観の差異に関わらず、西洋に暮らす人も東洋に暮らす人も、新世界に暮らす人もみな同じ「人間」であるという意識は、じつはキリスト教も仏教もイスラームも天理教も、みな同じ「宗教」であり、ぞれぞれの宗教伝統はそれを信奉する人たちにとって、どんな場合にも尊重すべき価値がある、という意識と深く重なっています。
十字軍の悲劇や新大陸での暴挙といった歴史の悲劇の多くは、宗教的な偏見や対立が引き金になって生じていることを忘れてはならないでしょう。「宗教」という概念の登場は、「人間」という意識の登場と分かちがたく結びついているのです。そしてのこの「人間/人権」意識は、ルネサンス以降の大きな社会変革のなかで、いわゆる近代文明の中核に位置づけられることになります。しばしば、神中心の文明から人間中心の文明へ、と言われる変化の過程のなかで、「宗教」という概念が形成されてくるのです。
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このあたりを簡単にまとめると・・・次のようになります。
次回は、こうした「宗教」という意識を背景として、「宗教学」という極めて近代的な学問が形成される過程について学びます。
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