マックス・ミュラーが提唱した、今日における「宗教」の存在意義に関する経験的・実証的研究は、同時代に登場した人文学系の諸学問と連動するかたちで発展していきます。
これまで、心理学や社会学、人類学と結びついた研究成果を紹介してきました。今回は、20世紀の新たな哲学の動向と関連して展開した、宗教現象学について紹介しましょう。
宗教現象学の展開
マックス・ミュラーが「宗教の科学的研究」を提唱した19世紀の末期に、哲学の新しい運動として登場してくるのが「現象学」と「現象学運動」です。提唱者とされるエドムント・フッサール(1859-1938)の現象学の理論が難解なうえに、現象学運動の担い手たちがさまざまな思想を展開していくために、彼らの活動を全体的に捉えることは容易ではありません。『現象学運動』という大著をまとめているシュピーゲルバークその人でさえ、「現象学とは何かを言い当てることの困難は、ほとんど悪名高いというほどによく知られている」と言っているほどです。
しかし、現象学は意識にあらわれる体験の構造を「説明」する方法であり、理論・推論・科学的仮説を前提とせずに、直観的な対象に対する意識を重視するということは、ある程度共有されているような気がします。つまり―簡単に説明するのは困難ですが、あえて言うなら―学問や常識などのフィルターを通さずに、対象の本質を直観的に把握し、現象をあるがままに捉えて、その本質を認識しようとします。このため、あらゆる理論にもとづく演繹的な説明は、極力排除されることになります。
この手法が、ちょうど同時代に登場した「宗教学」の諸分野に関連づけられると、社会学や心理学、文化人類学のフィルターを通して説明される「宗教」は、「宗教」の本質的な理解ではなくて「宗教」の学問的なイメージに過ぎない、ということになります。このため、宗教現象学の研究者とされる人々は、デユルケームやフロイトに代表されるような宗教の社会学的・心理学的説明を「還元主義」と批判し、宗教の本質を直観的に問い、宗教的価値を信じ、宗教的行為を行なう当事者にとっての行為の意味を理解することの重要性を訴えるようになりました。
フッサールが提唱した、「自然的態度の括弧入れ」、「純粋意識への還元」、「本質直観」などの新しい方法を宗教現象に適用し、哲学的宗教現象学を展開したのはマックス・シェーラー(1874-1928)でした。シェーラーは、宗教の「本質的現象学」と「具体的現象学」を区別し、前者こそが宗教の本質を真に捉えることができるとします。そして、宗教的作用を「宗教的志向作用」とみなして、その本質を解明しようとしました。同時にマックス・シェーラ―は、「哲学的人間学」を提唱して、人が超越的な存在や価値を信じることの意味を哲学的に基礎づけようとします。
また、フッサールが現象学の基本的構想を確立した20世紀の初頭は、ちょうどマックス・ミュラーが提唱した宗教の経験的・実証的研究が広く定着し、社会学や心理学、文化人類学などの理論をもとにした宗教研究が盛んに行われていた時期でした。こうした、人文学的な宗教研究のなかには、ジグムント・フロイトや―少し時代はずれますが―カール・マルクスのように、宗教の存在をネガテイブに捉える立場から、宗教や信仰の意味を説明する理論も少なくありませんでした。
こうした状況のなかで、とくにキリスト教の神学者の立場に近い宗教研究者のなかから、宗教的な経験の意味は、当事者である信仰者の内的経験の直観的な分析から始めなくてはならない、といった提言がなされるようになります。
宗教の本質としての「聖なるもの」
まず、代表的な宗教学者・神学者は、ルドルフ・オットーです。1917年に刊行された『聖なるもの』のなかで、オットーは「宗教とは何か」という問いを「宗教現象に固有の本質を理解すること」に置き換えます。つまり、社会学や心理学や文化人類学などの理論を通して演繹された「宗教」の説明ではなく、宗教的な価値を信じ、宗教的行為を行なう当事者にとっての行為の意味を理解することを重視しました。
たとえば、デユルケームの紹介のときに使った事例で言えば、教会本部へ参拝に行ったときに結界を踏み越えないのは、社会的な関係を背景とする「力/社会」が壁になっているから「だけ」ではなくて、宗教的行為に固有の何かがそこに存在するからだ、とオットーは考えます。
信仰者にとっての宗教的行為の意味は、社会的事実や心理的解釈にすべてを還元して説明することはできないのです。オットーは宗教学者であると同時に神学者であり、宗教活動を行なう当事者の意識に近い彼の宗教哲学は、あらゆる宗教伝統に属する神学者や信仰者たちに広く受け容れられていくことになります。
➡私自身、教会本部の神殿に参拝するときはいつも正座していますが、足を崩さない理由を社会学的・心理学的に説明されても、やはり違和感(それだけではない、という気持ち)が残ります。
とはいえ、宗教現象に固有の本質があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。オットーは、それは経験に先行するものであって、合理的・経験的に説明できるものではないとし、これをヌミノーゼ(Numinous)と名付けました。オットーが、ラテン語の「ヌーメン(numen)」から造語した用語です。
宗教経験の本質は、非合理的・先験的な「何か」の体験、すなわち「ヌミノーゼ」であるとすれば、宗教の存在意義の経験的・実証的研究という宗教学の前提は崩れてしまうように感じます。
しかし、この非合理的で先験的な経験は、あらゆる宗教現象の本質であるため、オットーは「聖なるもの」を前にした信仰者の態度や行為、すなわち世界の宗教現象を経験的・実証的に比較研究することによって、宗教的な行為の意味をより深く理解できると考えました。つまり、宗教の比較研究とそれによる宗教の本質の探究に、哲学的な基礎づけを与えることになったのです。
オットーが強調した、ヌミノーゼ(Numinous)体験の特徴は、戦慄的すべき神秘(Mysterium tremendum) と 魅惑する神秘(Mysterium fascinans)です。このような、心理学にも社会学にも還元できない感情があらゆる宗教体験の基盤であり、これは世界のさまざまな宗教伝統に共通してみられる、とオットーは考えました。
オットーは、デユルケームのように文献に残された記録を通して異文化の宗教を研究した人ではなく、副題に「旅するオットー」と題する本も出版されるほど、世界各地を自分の足で訪れ、各地の宗教現象を観察し、自ら収集した資料をもとにして、勤務先のマールブルク大学に「マールブルク宗教学資料館」を開設しました。
この資料館には、二代・三代真柱様との関係から天理教の詳しい資料も展示されています。主著である『聖なるもの』自体は、哲学的な議論に終始していますが、オットーの宗教論は自らの体験にもとづく世界の宗教伝統の幅広い知識に裏付けされているのです。
宗教現象の意味と人間の本質の探究
フッサールの現象学をより自覚的に信仰者の立場に引き寄せたのが、G. ファン・デル・レーウ(1890~1950)です。レーウはオランダの神学者ですが、近代の宗教現象学を代表する宗教学者でもありました。このあたりは、オットーと共通しています。
しかし、オットーが比較宗教学の哲学的な基礎づけを目指したのに対して、すでにC. P. ティーレやシャントピー・ド・ラ・ソーセイのような、人類史・世界史の視座から宗教史を構想する伝統があったオランダの宗教学の土壌で学んだレーウは、世界宗教史を全体的に俯瞰する「宗教現象学」を提唱します。つまり、世界の宗教史に普遍的に見られる現象の意味を信仰者の側から理解して、そこに共通の本質を見いだすというアプローチを提唱したのです。
レーウは、1933年に大著である『宗教現象学』を刊行していますが、その前段階の1924年に『宗教現象学入門』という小著を出版して、この新しい学問を概説しています。こちらは、田丸徳善先生の日本語訳がありますので、ぜひ図書館や宗教学科の演習室などで手に取ってみてください。
レーウにとって、宗教現象学は宗教史と同じ対象を扱う学問であり、彼にとっては基本的に宗教史と宗教現象学の区別はありません。「宗教史」という概念は、キリスト教史や仏教史、天理教史などとは違って、最初から諸宗教の比較を念頭に置いています。さらには、世界の宗教史という概念は、必然的に日本の宗教史やアメリカの宗教史、ヨーロッパの宗教史といった枠組みに限定されることのない、「人類」の宗教史という意味を含んでいます。
レーウは、人類の営みの通時的な記録であるこの「宗教史」をもとにして、「神の観念」や「人間観」、「神と人間の関係」、「世界観」や「制度・組織」といった宗教現象を総合的に把握し、「神」ないしは「超越的な何か」と人間の関係とは何か、人はなぜ「神」ないしは「超越的な何か」を信じるのか、といった問いに対して、信仰者の立場から答えようとします。
レーウにとって、宗教現象学は諸々の宗教現象が、信仰者にとってどのように捉えられているのかを問う営みでした。このため、彼はまず価値判断を差し控えて宗教現象の意味を問い、その意味に従って諸現象を分類することを重視します。そして、たとえば「神」というカテゴリーのもとで、古代の神話の神々や未開の部族の神々、キリスト教の神観念までを同列に並べて、それらに共通する「力あるもの」への態度を見ようとします。
その際、宗教現象の意味の解釈は社会学や心理学のようなフィルターを通すことなく、当事者にとっての行為の意味を通して理解されることを前提としました。
まず、先入観を廃して「これまで何が行なわれてきたのか」という事実を広く収集し、この事実の意味を当事者の立場を通して類型的に把握する姿勢は、あらゆる学問や常識のフィルターを通さずに対象の本質を直観的に把握し、現象をあるがままに捉えて、その本質を認識しようとするフッサールの現象学に共通するところがあります。
神を礼拝するという宗教的行為は、社会学者のデユルケームが分析したように、社会的事実として説明することも可能ですが、まずはそのようなフィルターを通した見方は「括弧に入れて」、当事者にとっての信仰の意味を問うべきである、とレーウは主張します。
こうした、かなり神学的な主張がフッサールの現象学を使ってなされたのです。なぜなら、この講義で紹介したデユルケームやジェイムズのような人たちとは違って、心理学や社会学の方法論を使って、これからの時代の宗教の存在について、ネガテイブな見解を提示する人も少なくなかったからです。
レーウの宗教現象学は、さまざまな宗教伝統に属する神学者たち―宗教を擁護する人たち―には歓迎されましたが、現象学運動の一部に組み込まれるような知的営みとして、評価されたとは言えません。しかし、宗教史の記述から独立した、人類の宗教的営みの総合的理解というレーウの営みは、社会学や心理学、文化人類学の一分野としての宗教研究ではなく、独立した研究分野としての「宗教学」の可能性を示すことになります。
人間存在と宗教―ホモ・レリギオースス―
こうした宗教現象学の潮流を人類史の分析にもとづく文化論にまで高めて、「比較宗教学」を独立の学問として成立させたのは、ルーマニア出身の宗教学者であり文学者でもあったミルチャ・エリアーデ(1907~1986)でした。
エリアーデの著作は膨大であり、彼が後半生を過ごしたシカゴ大学の宗教研究者たちと取り組んだプロジェクトも数えきれません。とはいえ、エリアーデの名声を確立した『聖と俗―宗教的なるものの本質について―』(1967)は、宗教学を学ぶ人にとっては必須の文献ですので、宗教学科の学生は在学中に必ず目を通してください。
この本のなかでエリアーデは、宗教現象の本質を理解するために「ヒエロファニー」【hierophany】という分析概念を提唱します。「聖体示現」とか「聖化現象」などと日本語訳されるこの概念をもとに、エリアーデは世界のさまざまな宗教現象を信仰者の側に立って説明していきます。
たとえば、しばしば巨大な石は世界のさまざまな地域で信仰対象になっていますが、その石自体は基本的にただの石です。特殊な成分を含む石であるケースは、極めて少ないでしょう。しかし、これらの石は神聖な存在として扱われます。
たしかに、山中に一つだけポツンと存在する巨大な石は想像力を掻き立ててくれます。もし、このような巨石をこの場所へ運んだ「力」があるとすれば、それは人知を超えた力ではないでしょうか。つまり、多くの場合に人々は、石を拝んでいるのではなく、石を通して人知を超えた「何か」やその「力」を礼拝しているのです。
また、一定の人々が何かを「聖なるもの」にすることもあります。かつて、米国のサンフランシスコの近くにあるスタンフォード大学の大学院に留学していた際、インド系の移民たちが大きな石をサンフランシスのゴールデンゲート公園に置き、崇拝の対象としているというニュースを新聞で見ました。
興味深い話なので、当時いろいろと調べてみたのですが、高さが2メートル近いこの巨石は、もともとある業者が公園に不法に捨てた産業廃棄物だったようです。しかし、その形がインドの宗教伝統において神聖とされる「リンガム」に近い弾丸のような形をしていたので、いつしかインド系の移民が集まるようになり、私が調べたときには、石に触って病気が治ったと主張する人まで現れていました。
この石は、不法投棄されたゴミなのか、それとも神聖な存在(聖なるもの)なのか。結局、サンフランシスコ市によって撤去されることになるのですが、エリアーデなら、きっとこの石は「ヒエロファニー」だと言ったでしょう。
聖なるものを中心とする世界は、近代的な価値観によって形成される世界とは違います。サンフランシスコの弾丸石を中心(世界軸/axis mundi)とする世界は、弾丸石を「聖なるもの」と見なして礼拝する人たちの世界であり、弾丸石に触れることによって病気の治る世界です。
これを近代的な価値観をもとに否定するのではなく、神聖なる世界に生きる人々の意志と「聖なるもの」とともに生きる人生の価値をエリアーデは尊重します。そして、その先に現代文明が失った神聖なる世界を取り戻し、新しいヒューマニズムを確立するという壮大な文明論を構想しました。
こうしたエリアーデの宗教論は、2度の世界大戦を経て、核戦争の危機に直面し、地球規模の環境汚染が指摘されるようになった1970年代以降に、カウンター・カルチャーやヒッピー・ムーブメントなどの近代批判の風潮に乗じて広く支持されました。
しかし、人類の精神文化の類型的把握を目指すエリアーデの「世界宗教史」の企画は、あまりに壮大で多岐にわたっており、細部における実証性が乏しいため、現代の宗教研究者たちに客観的で実証的な学問としては評価されていません。
しかし、エリアーデが提唱した近代文明批判と「聖なるもの」とともに生きる新しいヒューマニズムの価値は、現在においても決して色褪せてはいません。『聖と俗』を読む前と読んだ後では、宗教的行為に関する皆さんの意識はかなり変わるはずです。ぜひ、手に取ってみてください。
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