「翻訳語」としての「宗教」と近代日本
前回の講義までは、マックス・ミュラーによる「宗教」の経験科学的・実証的研究の提唱以来、同時期に登場した心理学や社会学、文化人類学や新しい哲学の動向などと連動して、広い範囲に及ぶ多彩な宗教研究が積み重ねられてきたことを紹介してきました。
これらの宗教研究の成果は、基本的に「現在の世界に生きる私たちにとって、宗教や信仰は必要なのか」といった本質的な問いを投げかけ、そのうえで「もし、これからの時代に生きる人々にとっても宗教や信仰に価値があるとするならば、それは一体何故なのか」といった切実な問いに答えてくれています。
主に20世紀を代表する優れた知性の持ち主たちが、新しい学問の方法をもとに蓄積してきた「宗教」に関するこれらの知の遺産は、これからの時代に教会長や布教従事者として世界に自らの信仰を伝えようと考えている人たちにとって、必ず役に立つ情報や理論を多く含んでいます。
あるいは、一般の企業や職場で働く人たちにとっても、他者の信仰や文化を理解し、学ぶことは極めて大切です。この講義では、古典中の古典と言えるような著作しか紹介できませんでしたが、少なくともどれか一冊くらいは、自分の手に取ってみてください。きっとこれまでの人生を変えるような、知的な出会いが待っているはずです。
明治期の宗教系用語の翻訳と定着
今回は、マックス・ミュラーが宗教学を提唱した時期に、日本に輸入された「宗教」概念について紹介します。ちなみに、マックス・ミュラーは天理教の教祖と同時代の人であり、ミュラーがロンドンの王立学問所で記念碑的な講演を行なった1870年は、教祖が「おふでさき」の執筆をはじめる1869年の次の年です。
半期の授業ですので、マックス・ミュラーの宗教学が日本に導入された経緯をくわしく説明する紙幅はありません。今回は、日本への西洋的/近代的な「宗教」概念の導入と定着過程についてのみ、簡単に紹介しておきます。
明治期の文明開化と近代化政策のもとで、西洋から導入されたさまざまな新しい概念とともに、新たな時代の新しい言葉が日本に導入され、翻訳語として定着していくなかで新しい社会や文化の枠組みが形成されていきます。
有名なところでは、「社会」、「自由」、「権利」、「義務」といった新しく造られた翻訳語とともに、宗教関係の新たな言葉も翻訳語として定着し、これらの概念が導入される以前の日本人の宗教概念に大きな影響を及ぼすことになります。
著名な国語学者の飛田良文や翻訳語・比較文化論研究者の柳父章といった人々の研究によれば、明治期に日本に導入された概念や事物のなかには、それまで日本に存在していなかったものが沢山あり、それらの翻訳のために新しい言葉が造られました。
鉄道や憲法などは、それまで日本になかった技術や制度ですから、新しい言葉が造られるのは当たり前です。しかし、もっと抽象的な概念であっても日本語に対応する語彙が存在しないケースがしばしばありました。
日本語に対応する語彙がないということは、その概念自体が日本には存在していなかった、ということになります。「社会」や「自由」、「権利」といった言葉や概念のなかった世界に、新しい言葉や概念が導入されることは、当然のように社会や文化のあり方を変えていく原動力になっていきました。
こうした新語の造語法には、一般に大きく分けて次の三つの種類があると言われています。
まず、一つ目の(1)新造語は、日本語に西洋語の概念が存在しないために、日本人が新しく造語した新語のことです。福沢諭吉が古くから日本で使われていた「世間」に対して、society の翻訳語として「社会」という新語を造ったことはよく知られています。
「世間の目を気にする」というように、農村社会の相互依存と相互監視のイメージが強い「世間」という言葉では、自立した個人が形成する市民社会のイメージを伝えることはできません。福沢諭吉が「社会」という新造語を生みだしたことは、単なる言葉の置き換え以上の意味があったと思います。
他にも philosophy 哲学、science 科学、Being 存在 といった新造語が有名です。哲学系の新造語が多いのは、「哲学」という学問自体が西洋由来であり、日本人にとっては新しい学問であったからです。
帝国大学の井上哲次郎などが主な哲学語を日本語に訳しましたが、その際の翻訳語が難解な漢字を組み合わせた抽象的新語であったために、日本の哲学書は難解になったとも言われています。
二つ目の種類は、(2)借用語です。日本語に西洋語の概念が存在しないため、主に中国で活躍した欧米人宣教師の中国語訳、漢訳洋書、英華辞典などから中国語の訳語を借用し、日本語に適用した翻訳語です。この場合、もとは中国語訳ですので、どうしても中国語のニュアンスと訳語の背景にある中国文化の影響を避けることができません。
このタイプの代表的な翻訳語の一つは、「神=God」です。かつて津田左右吉が指摘し、柳父章が強調するように、Godを「神」と訳すことによって、中国語の「神 shen」と日本語の「神 kami」のニュアンスの違いが無視され、さまざまな混乱が生じることになります。
また、adventure/冒険 や love/恋愛 といった概念や telegram/電報 といった用語も中国語経由で翻訳されました。江戸時代の洋学の知識は―もちろん、和蘭通詞のような人たちはいましたが―基本的に中国語訳された文献をもとにしていました。多くの西洋の概念は、江戸時代中期以降に中国語訳された文献から輸入されています。
三つ目は、(3)転用語です。これは日本語に西洋語の概念が存在しないために、もともと日本語に存在した類義語に、新しい意味を付加して転用した翻訳語です。代表的なものでは、century/世紀 や common sense/常識、home/家庭 や right/権利、といった言葉があります。「religion/宗教」は、この転用語の一つです。
宗教/Religion という翻訳語
「religion=宗教」という翻訳語が必要とされるようになるのは、最初は安政5年(1805)の「日米修好通商条約」を締結した時でした。
このとき、日米だけでなく日英・日仏・日露・日蘭の五か国との通商条約が結ばれます。この条約締結の際に、religion という言葉と概念がはじめて日本人に意識されるようになりました。とくに、日米修好通商条約の第8条には、日本におけるアメリカ人の宗教活動の自由を求める記載がありました。ここには、Christianity/キリスト教ではなく、religion/宗教と記載されています。
それは、日本とアメリカの宗教上の違いからくる対立を避ける思惑から記された条文でした。この授業の最初の頃に学んだように、西欧の世界はキリスト教の価値観を絶対視する中世の世界から、他者の人権や宗教的価値観を尊重し、異なる文化や宗教間の相互理解を重んじる近代文明へと長い時間をかけて転換していきます。宗教を理由に異文化間の対立が生じ、長い戦争と紛争の時代を経てきた西洋文明の歴史が、この条文の「religion」という言葉には含まれていました。
しかし、200年以上「鎖国」を続けてきた日本には、宗教の相違にもとづく異文化間の対立や紛争などは、ほとんど理解できていませんでした。このときは、主に「宗旨」や「宗法」という訳語が使われています。
外交文書に「宗教」という訳語が登場するのは、相原一郎介によると、明治2年のドイツとの条約が最初であるとされています。もともと、「宗教」という熟語は日本語にありましたが、それは「宗派の教え」といった意味で使われる言葉でした。
仏教もキリスト教も天理教もみな「宗教」である、といった意味で使われる「宗教」の概念は、それまで日本語にはなかったと言っても良いと思います。初期には「教門」、「宗門」、「法教」といった訳語も使われていますが、どれも religion という言葉の意味とは程遠い熟語でした。
鈴木範久氏は、日本におけるキリスト教の禁制に抗議するアメリカからの文書に religion とあるのを「邪宗門」ではなく「宗教」と翻訳したことが、他者の信仰を理解する意味を含んだ「宗教」という言葉の使用の最初であると指摘しました。
このような過程を経て、「religion=宗教」という翻訳語が日本で使われていくのは、明治10年代のことだとされています。そして、「宗教」という翻訳語と「宗教」という言葉の意味する概念が、一般に現在のような意味で使われていくのは、明治30年代以降のことです。
近代的「宗教」概念の定着
この講義ですでに紹介したように、1893年に米国シカゴ市のコロンビア万国博覧会に合わせて、万国宗教会議(the World’s Parliament of Religions)が開催されました。この会議には、日本からも仏教各宗派や神道関係者が出席し、世界の十大宗教の代表者たちと活発な議論を重ねます。
この会議に出席した日本の代表者たちは、帰国後も国内の宗教関係者を集めて日本版の宗教会議の開催を企画し、明治29年(1896)に「宗教家懇談会」を開催します。この会には、仏教、キリスト教、神道などの代表者が参加しました。
明治維新以来、排仏論や排耶論、護法論といった言葉がしばしば使われてきたように、互いに対立する場面の多かった日本の仏教、神道、キリスト教は、対立関係から対話路線へ方向転換することになりました。
明治30年代以降は、仏教者の反キリスト教的な主張は影を潜めますし、復古神道的な排仏論は過去のものになります。しばしば、日本仏教は近世的な堕落した姿からは脱却したと考えられました。キリスト教徒のなかにも、内村鑑三のように法然や道元、本居宣長や平田篤胤らの思想を含む、日本の精神文化を称えながら、日本精神を基盤とするキリスト教思想を展開する人も登場してきます。
こうして、「三教会同」という協調路線が形成されていくのですが、日本における諸宗教間の対話路線は、日本が悲惨な戦争へ向かっていくプロセスのなかで、次第にナショナリズム的な傾向を強くしていくことになります。
また、最初の宗教家懇談会に出席していた岸本能武太と姉崎正治は、明治29年に宗教間対話の傾向が強い懇談会とは別に、学術的な会合を企画し、現在の「日本宗教学会」の前身となる「比較宗教学会」を設立します。
シカゴの万国宗教会議自体、マックス・ミュラーが提唱した、今日における「宗教」の存在意義に関する経験科学的な研究と諸宗教の比較研究にもとづく「宗教」の本質の探究、という宗教研究の新たな潮流を背景とするものでした。明治30年代には、この近代的な「宗教」概念が日本に定着して行きます。
日米修好通商条約の条文からはじまった日本における「宗教」概念の受容は、「宗教学」という新たな学問の導入とともに転機を迎え、「宗教」という言葉を現在のような意味で使う語法が日本社会に定着していきました。
そして、明治38年(1905年)に姉崎正冶を担任教授として、東京帝国大学に宗教学講座が開設されるのですが、今回はそこまで詳しく説明することはできないようです。
フリードリヒ・マックス・ミュラーの伝説的な講演が行われたのは明治3年であり、「宗教学」という新しい学問は、明治維新後の日本にほとんどタイムラグなしに直輸入されることになります。このときにキーマンとなった、南条文雄や笠原研寿といった人々についても紹介したいのですが・・・これは次の機会に・・・。
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