2021年6月21日月曜日

宗教学概論1 第11回


「翻訳語」としての「宗教」と近代日本


 前回の講義までは、マックス・ミュラーによる「宗教」の経験科学的・実証的研究の提唱以来、同時期に登場した心理学社会学文化人類学新しい哲学の動向などと連動して、広い範囲に及ぶ多彩な宗教研究が積み重ねられてきたことを紹介してきました。

 これらの宗教研究の成果は、基本的に「現在の世界に生きる私たちにとって、宗教や信仰は必要なのか」といった本質的な問いを投げかけ、そのうえで「もし、これからの時代に生きる人々にとっても宗教や信仰に価値があるとするならば、それは一体何故なのか」といった切実な問いに答えてくれています。

 主に20世紀を代表する優れた知性の持ち主たちが、新しい学問の方法をもとに蓄積してきた「宗教」に関するこれらの知の遺産は、これからの時代に教会長や布教従事者として世界に自らの信仰を伝えようと考えている人たちにとって、必ず役に立つ情報や理論を多く含んでいます。

 あるいは、一般の企業や職場で働く人たちにとっても、他者の信仰や文化を理解し、学ぶことは極めて大切です。この講義では、古典中の古典と言えるような著作しか紹介できませんでしたが、少なくともどれか一冊くらいは、自分の手に取ってみてください。きっとこれまでの人生を変えるような、知的な出会いが待っているはずです。




明治期の宗教系用語の翻訳と定着

 今回は、マックス・ミュラー宗教学を提唱した時期に、日本に輸入された「宗教」概念について紹介します。ちなみに、マックス・ミュラーは天理教の教祖と同時代の人であり、ミュラーがロンドンの王立学問所で記念碑的な講演を行なった1870年は、教祖が「おふでさき」の執筆をはじめる1869年の次の年です。

 半期の授業ですので、マックス・ミュラーの宗教学が日本に導入された経緯をくわしく説明する紙幅はありません。今回は、日本への西洋的/近代的な「宗教」概念の導入定着過程についてのみ、簡単に紹介しておきます。

 明治期の文明開化近代化政策のもとで、西洋から導入されたさまざまな新しい概念とともに、新たな時代の新しい言葉が日本に導入され、翻訳語として定着していくなかで新しい社会文化の枠組みが形成されていきます。

 有名なところでは、「社会」、「自由」、「権利」、「義務」といった新しく造られた翻訳語とともに、宗教関係の新たな言葉翻訳語として定着し、これらの概念が導入される以前の日本人の宗教概念に大きな影響を及ぼすことになります。




 著名な国語学者の飛田良文や翻訳語・比較文化論研究者の柳父章といった人々の研究によれば、明治期に日本に導入された概念や事物のなかには、それまで日本に存在していなかったものが沢山あり、それらの翻訳のために新しい言葉が造られました。

 鉄道憲法などは、それまで日本になかった技術や制度ですから、新しい言葉が造られるのは当たり前です。しかし、もっと抽象的な概念であっても日本語に対応する語彙が存在しないケースがしばしばありました。

 日本語に対応する語彙がないということは、その概念自体が日本には存在していなかった、ということになります。「社会」「自由」「権利」といった言葉や概念のなかった世界に、新しい言葉や概念が導入されることは、当然のように社会や文化のあり方を変えていく原動力になっていきました。




 こうした新語の造語法には、一般に大きく分けて次の三つの種類があると言われています。

 まず、一つ目の(1)新造語は、日本語に西洋語の概念が存在しないために、日本人が新しく造語した新語のことです。福沢諭吉が古くから日本で使われていた「世間」に対して、society の翻訳語として「社会」という新語を造ったことはよく知られています。

「世間の目を気にする」というように、農村社会の相互依存相互監視のイメージが強い「世間」という言葉では、自立した個人が形成する市民社会のイメージを伝えることはできません。福沢諭吉が「社会」という新造語を生みだしたことは、単なる言葉の置き換え以上の意味があったと思います。

 他にも philosophy 哲学science 科学Being 存在 といった新造語が有名です。哲学系の新造語が多いのは、「哲学」という学問自体が西洋由来であり、日本人にとっては新しい学問であったからです。

 帝国大学の井上哲次郎などが主な哲学語を日本語に訳しましたが、その際の翻訳語が難解な漢字を組み合わせた抽象的新語であったために、日本の哲学書は難解になったとも言われています。

 二つ目の種類は、(2)借用語です。日本語に西洋語の概念が存在しないため、主に中国で活躍した欧米人宣教師の中国語訳、漢訳洋書、英華辞典などから中国語の訳語を借用し、日本語に適用した翻訳語です。この場合、もとは中国語訳ですので、どうしても中国語のニュアンスと訳語の背景にある中国文化の影響を避けることができません。

 このタイプの代表的な翻訳語の一つは、「神=God」です。かつて津田左右吉が指摘し、柳父章が強調するように、Godを「神」と訳すことによって、中国語の「神 shen」と日本語の「神 kami」のニュアンスの違いが無視され、さまざまな混乱が生じることになります。

 また、adventure/冒険 love/恋愛 といった概念や telegram/電報 といった用語も中国語経由で翻訳されました。江戸時代の洋学の知識―もちろん、和蘭通詞のような人たちはいましたが―基本的に中国語訳された文献をもとにしていました。多くの西洋の概念は、江戸時代中期以降に中国語訳された文献から輸入されています。

 三つ目は、(3)転用語です。これは日本語に西洋語の概念が存在しないために、もともと日本語に存在した類義語に、新しい意味を付加して転用した翻訳語です。代表的なものでは、century/世紀common sense/常識home/家庭 right/権利、といった言葉があります。「religion/宗教」は、この転用語の一つです。


宗教/Religion という翻訳語

「religion=宗教」という翻訳語が必要とされるようになるのは、最初は安政5年(1805)「日米修好通商条約」を締結した時でした。

 このとき、日米だけでなく日英・日仏・日露・日蘭の五か国との通商条約が結ばれます。この条約締結の際に、religion という言葉と概念がはじめて日本人に意識されるようになりました。とくに、日米修好通商条約の第8条には、日本におけるアメリカ人の宗教活動の自由を求める記載がありました。ここには、Christianity/キリスト教ではなく、religion/宗教と記載されています。

 それは、日本とアメリカの宗教上の違いからくる対立を避ける思惑から記された条文でした。この授業の最初の頃に学んだように、西欧の世界はキリスト教の価値観を絶対視する中世の世界から、他者の人権や宗教的価値観を尊重し、異なる文化や宗教間の相互理解を重んじる近代文明へと長い時間をかけて転換していきます。宗教を理由に異文化間の対立が生じ、長い戦争と紛争の時代を経てきた西洋文明の歴史が、この条文の「religion」という言葉には含まれていました。

 しかし、200年以上「鎖国」を続けてきた日本には、宗教の相違にもとづく異文化間の対立や紛争などは、ほとんど理解できていませんでした。このときは、主に「宗旨」「宗法」という訳語が使われています。




 外交文書に「宗教」という訳語が登場するのは、相原一郎介によると、明治2年のドイツとの条約が最初であるとされています。もともと、「宗教」という熟語は日本語にありましたが、それは「宗派の教え」といった意味で使われる言葉でした。

 仏教キリスト教天理教もみな「宗教」である、といった意味で使われる「宗教」の概念は、それまで日本語にはなかったと言っても良いと思います。初期には「教門」、「宗門」、「法教」といった訳語も使われていますが、どれも  religion という言葉の意味とは程遠い熟語でした。

 鈴木範久氏は、日本におけるキリスト教の禁制に抗議するアメリカからの文書に religion とあるのを「邪宗門」ではなく「宗教」と翻訳したことが、他者の信仰を理解する意味を含んだ「宗教」という言葉の使用の最初であると指摘しました。

 このような過程を経て、「religion=宗教」という翻訳語が日本で使われていくのは、明治10年代のことだとされています。そして、「宗教」という翻訳語と「宗教」という言葉の意味する概念が、一般に現在のような意味で使われていくのは、明治30年代以降のことです。


近代的「宗教」概念の定着

 この講義ですでに紹介したように、1893年に米国シカゴ市のコロンビア万国博覧会に合わせて、万国宗教会議(the World’s Parliament of Religions)が開催されました。この会議には、日本からも仏教各宗派や神道関係者が出席し、世界の十大宗教の代表者たちと活発な議論を重ねます。

 この会議に出席した日本の代表者たちは、帰国後も国内の宗教関係者を集めて日本版の宗教会議の開催を企画し、明治29年(1896)「宗教家懇談会」を開催します。この会には、仏教、キリスト教、神道などの代表者が参加しました。

 明治維新以来、排仏論排耶論護法論といった言葉がしばしば使われてきたように、互いに対立する場面の多かった日本の仏教神道キリスト教は、対立関係から対話路線へ方向転換することになりました。




 明治30年代以降は、仏教者の反キリスト教的な主張は影を潜めますし、復古神道的な排仏論は過去のものになります。しばしば、日本仏教は近世的な堕落した姿からは脱却したと考えられました。キリスト教徒のなかにも、内村鑑三のように法然や道元、本居宣長や平田篤胤らの思想を含む、日本の精神文化を称えながら、日本精神を基盤とするキリスト教思想を展開する人も登場してきます。

 こうして、「三教会同」という協調路線が形成されていくのですが、日本における諸宗教間の対話路線は、日本が悲惨な戦争へ向かっていくプロセスのなかで、次第にナショナリズム的な傾向を強くしていくことになります。

 また、最初の宗教家懇談会に出席していた岸本能武太姉崎正治は、明治29年に宗教間対話の傾向が強い懇談会とは別に、学術的な会合を企画し、現在の「日本宗教学会」の前身となる「比較宗教学会」を設立します。

 シカゴの万国宗教会議自体、マックス・ミュラーが提唱した、今日における「宗教」の存在意義に関する経験科学的な研究と諸宗教の比較研究にもとづく「宗教」の本質の探究、という宗教研究の新たな潮流を背景とするものでした。明治30年代には、この近代的な「宗教」概念日本に定着して行きます。

 日米修好通商条約の条文からはじまった日本における「宗教」概念の受容は、「宗教学」という新たな学問の導入とともに転機を迎え、「宗教」という言葉を現在のような意味で使う語法が日本社会に定着していきました。

 そして、明治38年(1905年)姉崎正冶を担任教授として、東京帝国大学に宗教学講座が開設されるのですが、今回はそこまで詳しく説明することはできないようです。

 フリードリヒ・マックス・ミュラーの伝説的な講演が行われたのは明治3年であり、「宗教学」という新しい学問は、明治維新後の日本にほとんどタイムラグなしに直輸入されることになります。このときにキーマンとなった、南条文雄笠原研寿といった人々についても紹介したいのですが・・・これは次の機会に・・・。

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2021年6月14日月曜日

宗教学概論1 第10回


人間存在と宗教

―宗教現象学の展開―


 マックス・ミュラーが提唱した、今日における「宗教」の存在意義に関する経験的・実証的研究は、同時代に登場した人文学系の諸学問と連動するかたちで発展していきます。

 これまで、心理学や社会学、人類学と結びついた研究成果を紹介してきました。今回は、20世紀の新たな哲学の動向と関連して展開した、宗教現象学について紹介しましょう。


宗教現象学の展開

 マックス・ミュラーが「宗教の科学的研究」を提唱した19世紀の末期に、哲学の新しい運動として登場してくるのが「現象学」と「現象学運動」です。提唱者とされるエドムント・フッサール(1859-1938)現象学の理論が難解なうえに、現象学運動の担い手たちがさまざまな思想を展開していくために、彼らの活動を全体的に捉えることは容易ではありません。『現象学運動』という大著をまとめているシュピーゲルバークその人でさえ、「現象学とは何かを言い当てることの困難は、ほとんど悪名高いというほどによく知られている」と言っているほどです。




 しかし、現象学は意識にあらわれる体験の構造を「説明」する方法であり、理論・推論・科学的仮説を前提とせずに、直観的な対象に対する意識を重視するということは、ある程度共有されているような気がします。つまり―簡単に説明するのは困難ですが、あえて言うなら―学問や常識などのフィルターを通さずに、対象の本質を直観的に把握し、現象をあるがままに捉えて、その本質を認識しようとします。このため、あらゆる理論にもとづく演繹的な説明は、極力排除されることになります。

 この手法が、ちょうど同時代に登場した「宗教学」の諸分野に関連づけられると、社会学や心理学、文化人類学のフィルターを通して説明される「宗教」は、「宗教」の本質的な理解ではなくて「宗教」の学問的なイメージに過ぎない、ということになります。このため、宗教現象学の研究者とされる人々は、デユルケームやフロイトに代表されるような宗教の社会学的・心理学的説明を「還元主義」と批判し、宗教の本質を直観的に問い、宗教的価値を信じ、宗教的行為を行なう当事者にとっての行為の意味を理解することの重要性を訴えるようになりました。 

 フッサールが提唱した、「自然的態度の括弧入れ」「純粋意識への還元」、「本質直観」などの新しい方法を宗教現象に適用し、哲学的宗教現象学を展開したのはマックス・シェーラー(1874-1928)でした。シェーラーは、宗教の「本質的現象学」「具体的現象学」を区別し、前者こそが宗教の本質を真に捉えることができるとします。そして、宗教的作用を「宗教的志向作用」とみなして、その本質を解明しようとしました。同時にマックス・シェーラ―は、「哲学的人間学」を提唱して、人が超越的な存在や価値を信じることの意味を哲学的に基礎づけようとします。



 また、フッサールが現象学の基本的構想を確立した20世紀の初頭は、ちょうどマックス・ミュラーが提唱した宗教の経験的・実証的研究が広く定着し、社会学や心理学、文化人類学などの理論をもとにした宗教研究が盛んに行われていた時期でした。こうした、人文学的な宗教研究のなかには、ジグムント・フロイトや―少し時代はずれますが―カール・マルクスのように、宗教の存在をネガテイブに捉える立場から、宗教や信仰の意味を説明する理論も少なくありませんでした。

 こうした状況のなかで、とくにキリスト教の神学者の立場に近い宗教研究者のなかから、宗教的な経験の意味は、当事者である信仰者の内的経験の直観的な分析から始めなくてはならない、といった提言がなされるようになります。


宗教の本質としての「聖なるもの」

 まず、代表的な宗教学者・神学者は、ルドルフ・オットーです。1917年に刊行された『聖なるもの』のなかで、オットーは「宗教とは何か」という問いを「宗教現象に固有の本質を理解すること」に置き換えます。つまり、社会学や心理学や文化人類学などの理論を通して演繹された「宗教」の説明ではなく、宗教的な価値を信じ、宗教的行為を行なう当事者にとっての行為の意味を理解することを重視しました。



 たとえば、デユルケームの紹介のときに使った事例で言えば、教会本部へ参拝に行ったときに結界を踏み越えないのは、社会的な関係を背景とする「力/社会」が壁になっているから「だけ」ではなくて、宗教的行為に固有の何かがそこに存在するからだ、とオットーは考えます。

 信仰者にとっての宗教的行為の意味は、社会的事実や心理的解釈にすべてを還元して説明することはできないのです。オットーは宗教学者であると同時に神学者であり、宗教活動を行なう当事者の意識に近い彼の宗教哲学は、あらゆる宗教伝統に属する神学者や信仰者たちに広く受け容れられていくことになります。

➡私自身、教会本部の神殿に参拝するときはいつも正座していますが、足を崩さない理由を社会学的・心理学的に説明されても、やはり違和感(それだけではない、という気持ち)が残ります。

 とはいえ、宗教現象に固有の本質があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。オットーは、それは経験に先行するものであって、合理的・経験的に説明できるものではないとし、これをヌミノーゼ(Numinous)と名付けました。オットーが、ラテン語の「ヌーメン(numen)」から造語した用語です。

 宗教経験の本質は、非合理的・先験的な「何か」の体験、すなわち「ヌミノーゼ」であるとすれば、宗教の存在意義の経験的・実証的研究という宗教学の前提は崩れてしまうように感じます。

 しかし、この非合理的で先験的な経験は、あらゆる宗教現象の本質であるため、オットーは「聖なるもの」を前にした信仰者の態度や行為、すなわち世界の宗教現象を経験的・実証的に比較研究することによって、宗教的な行為の意味をより深く理解できると考えました。つまり、宗教の比較研究とそれによる宗教の本質の探究に、哲学的な基礎づけを与えることになったのです。




 オットーが強調した、ヌミノーゼ(Numinous)体験の特徴は、戦慄的すべき神秘(Mysterium tremendum) 魅惑する神秘(Mysterium fascinans)です。このような、心理学にも社会学にも還元できない感情があらゆる宗教体験の基盤であり、これは世界のさまざまな宗教伝統に共通してみられる、とオットーは考えました。



 オットーは、デユルケームのように文献に残された記録を通して異文化の宗教を研究した人ではなく、副題に「旅するオットー」と題する本も出版されるほど、世界各地を自分の足で訪れ、各地の宗教現象を観察し、自ら収集した資料をもとにして、勤務先のマールブルク大学に「マールブルク宗教学資料館」を開設しました。

 この資料館には、二代・三代真柱様との関係から天理教の詳しい資料も展示されています。主著である『聖なるもの』自体は、哲学的な議論に終始していますが、オットーの宗教論は自らの体験にもとづく世界の宗教伝統の幅広い知識に裏付けされているのです。


宗教現象の意味と人間の本質の探究

 フッサールの現象学をより自覚的に信仰者の立場に引き寄せたのが、G. ファン・デル・レーウ(1890~1950)です。レーウはオランダの神学者ですが、近代の宗教現象学を代表する宗教学者でもありました。このあたりは、オットーと共通しています。

 しかし、オットー比較宗教学の哲学的な基礎づけを目指したのに対して、すでにC. P. ティーレシャントピー・ド・ラ・ソーセイのような、人類史・世界史の視座から宗教史を構想する伝統があったオランダの宗教学の土壌で学んだレーウは、世界宗教史を全体的に俯瞰する「宗教現象学」を提唱します。つまり、世界の宗教史に普遍的に見られる現象の意味を信仰者の側から理解して、そこに共通の本質を見いだすというアプローチを提唱したのです。

 レーウは、1933年に大著である『宗教現象学』を刊行していますが、その前段階の1924年『宗教現象学入門』という小著を出版して、この新しい学問を概説しています。こちらは、田丸徳善先生の日本語訳がありますので、ぜひ図書館や宗教学科の演習室などで手に取ってみてください。



 レーウにとって、宗教現象学は宗教史と同じ対象を扱う学問であり、彼にとっては基本的に宗教史と宗教現象学の区別はありません。「宗教史」という概念は、キリスト教史や仏教史、天理教史などとは違って、最初から諸宗教の比較を念頭に置いています。さらには、世界の宗教史という概念は、必然的に日本の宗教史やアメリカの宗教史、ヨーロッパの宗教史といった枠組みに限定されることのない、「人類」の宗教史という意味を含んでいます。

 レーウは、人類の営みの通時的な記録であるこの「宗教史」をもとにして、「神の観念」「人間観」「神と人間の関係」「世界観」「制度・組織」といった宗教現象を総合的に把握し、「神」ないしは「超越的な何か」と人間の関係とは何か、人はなぜ「神」ないしは「超越的な何か」を信じるのか、といった問いに対して、信仰者の立場から答えようとします。

 レーウにとって、宗教現象学は諸々の宗教現象が、信仰者にとってどのように捉えられているのかを問う営みでした。このため、彼はまず価値判断を差し控えて宗教現象の意味を問い、その意味に従って諸現象を分類することを重視します。そして、たとえば「神」というカテゴリーのもとで、古代の神話の神々や未開の部族の神々、キリスト教の神観念までを同列に並べて、それらに共通する「力あるもの」への態度を見ようとします。

 その際、宗教現象の意味の解釈は社会学や心理学のようなフィルターを通すことなく、当事者にとっての行為の意味を通して理解されることを前提としました。

 まず、先入観を廃して「これまで何が行なわれてきたのか」という事実を広く収集し、この事実の意味を当事者の立場を通して類型的に把握する姿勢は、あらゆる学問や常識のフィルターを通さずに対象の本質を直観的に把握し、現象をあるがままに捉えて、その本質を認識しようとするフッサールの現象学に共通するところがあります。



 神を礼拝するという宗教的行為は、社会学者のデユルケームが分析したように、社会的事実として説明することも可能ですが、まずはそのようなフィルターを通した見方は「括弧に入れて」当事者にとっての信仰の意味を問うべきである、とレーウは主張します。

 こうした、かなり神学的な主張がフッサールの現象学を使ってなされたのです。なぜなら、この講義で紹介したデユルケームやジェイムズのような人たちとは違って、心理学や社会学の方法論を使って、これからの時代の宗教の存在について、ネガテイブな見解を提示する人も少なくなかったからです。

 レーウの宗教現象学は、さまざまな宗教伝統に属する神学者たち―宗教を擁護する人たち―には歓迎されましたが、現象学運動の一部に組み込まれるような知的営みとして、評価されたとは言えません。しかし、宗教史の記述から独立した、人類の宗教的営みの総合的理解というレーウの営みは、社会学や心理学、文化人類学の一分野としての宗教研究ではなく、独立した研究分野としての「宗教学」の可能性を示すことになります。


人間存在と宗教―ホモ・レリギオースス―

 こうした宗教現象学の潮流を人類史の分析にもとづく文化論にまで高めて、「比較宗教学」を独立の学問として成立させたのは、ルーマニア出身の宗教学者であり文学者でもあったミルチャ・エリアーデ(1907~1986)でした。

 エリアーデの著作は膨大であり、彼が後半生を過ごしたシカゴ大学の宗教研究者たちと取り組んだプロジェクトも数えきれません。とはいえ、エリアーデの名声を確立した『聖と俗―宗教的なるものの本質について―』(1967)は、宗教学を学ぶ人にとっては必須の文献ですので、宗教学科の学生は在学中に必ず目を通してください。



 この本のなかでエリアーデは、宗教現象の本質を理解するために「ヒエロファニー」【hierophany】という分析概念を提唱します。「聖体示現」とか「聖化現象」などと日本語訳されるこの概念をもとに、エリアーデは世界のさまざまな宗教現象を信仰者の側に立って説明していきます。

 たとえば、しばしば巨大な石は世界のさまざまな地域で信仰対象になっていますが、その石自体は基本的にただの石です。特殊な成分を含む石であるケースは、極めて少ないでしょう。しかし、これらの石は神聖な存在として扱われます。

 たしかに、山中に一つだけポツンと存在する巨大な石は想像力を掻き立ててくれます。もし、このような巨石をこの場所へ運んだ「力」があるとすれば、それは人知を超えた力ではないでしょうか。つまり、多くの場合に人々は、石を拝んでいるのではなく、石を通して人知を超えた「何か」やその「力」を礼拝しているのです。

 また、一定の人々が何かを「聖なるもの」にすることもあります。かつて、米国のサンフランシスコの近くにあるスタンフォード大学の大学院に留学していた際、インド系の移たちが大きな石をサンフランシスのゴールデンゲート公園に置き、崇拝の対象としているというニュースを新聞で見ました。

 興味深い話なので、当時いろいろと調べてみたのですが、高さが2メートル近いこの巨石は、もともとある業者が公園に不法に捨てた産業廃棄物だったようです。しかし、その形がインドの宗教伝統において神聖とされる「リンガム」に近い弾丸のような形をしていたので、いつしかインド系の移民が集まるようになり、私が調べたときには、石に触って病気が治ったと主張する人まで現れていました。

 この石は、不法投棄されたゴミなのか、それとも神聖な存在(聖なるもの)なのか。結局、サンフランシスコ市によって撤去されることになるのですが、エリアーデなら、きっとこの石は「ヒエロファニー」だと言ったでしょう。



 聖なるものを中心とする世界は、近代的な価値観によって形成される世界とは違います。サンフランシスコの弾丸石を中心(世界軸/axis mundi)とする世界は、弾丸石を「聖なるもの」と見なして礼拝する人たちの世界であり、弾丸石に触れることによって病気の治る世界です。

 これを近代的な価値観をもとに否定するのではなく、神聖なる世界に生きる人々の意志「聖なるもの」とともに生きる人生の価値をエリアーデは尊重します。そして、その先に現代文明が失った神聖なる世界を取り戻し、新しいヒューマニズムを確立するという壮大な文明論を構想しました。

 こうしたエリアーデの宗教論は、2度の世界大戦を経て、核戦争の危機に直面し、地球規模の環境汚染が指摘されるようになった1970年代以降に、カウンター・カルチャーやヒッピー・ムーブメントなどの近代批判の風潮に乗じて広く支持されました。

 しかし、人類の精神文化の類型的把握を目指すエリアーデの「世界宗教史」の企画は、あまりに壮大で多岐にわたっており、細部における実証性が乏しいため、現代の宗教研究者たちに客観的で実証的な学問としては評価されていません。

 しかし、エリアーデが提唱した近代文明批判と「聖なるもの」とともに生きる新しいヒューマニズムの価値は、現在においても決して色褪せてはいません。『聖と俗』を読む前と読んだ後では、宗教的行為に関する皆さんの意識はかなり変わるはずです。ぜひ、手に取ってみてください。

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2021年6月7日月曜日

宗教学概論1 第9回


宗教人類学と文化研究

―タイラーからギアーツへ―

宗教人類学と文化研究

 マックス・ミュラーが提唱した、今日における「宗教」の存在意義に関する経験的・実証的研究は、同時代に登場した人文系の諸学問と連動するかたちで発展していきます。これまでに、心理学や社会学と結びついた研究成果を紹介しました。今回は宗教の人類学的研究文化研究について紹介しましょう。

 人文系の学問と結びついて展開してきた、経験的・実証的な宗教研究の諸分野のなかで、これまで最も多くの研究成果が残され、今日においても新たな研究が積極的に行われている分野は、人類学民俗学、さらには文化論文明論などと結びついた宗教研究です。

 現在でも新しい研究成果が続々と発表されていますので、今回の講義では紹介する研究者の名前著作のタイトル基本的概念などの数がこれまでの講義よりも遥かに多くなっています。講義の内容を理解することはもちろん大切ですが、まずこれらの名称を覚えてください。

 宗教人類学と文化研究に関連する宗教研究は多岐にわたっています。このため、簡単に分類するのは難しいのですが、敢えてここでは次の3分野に分けて、先行研究を紹介することにしましょう。



 一般に人類学は、人類の生物学的な進化考古学的な発掘調査などを駆使して研究する自然人類学(Biological Anthropology)と、人類の社会的・文化的側面を研究する文化人類学 (Cultural Anthropology)ないしは、社会的側面を強調する社会人類学 (Social Anthropology) に大別されます。

 ここでは、文化人類学と社会人類学を総称して”文化人類学”とし、文化人類学的な宗教研究の古典的な業績を紹介します。

 まず、初期の文化人類学の営みは、人類の文化の起源と進化の研究にしばしば宗教研究を結びつけました。神話や儀礼習俗・習慣などの人類の文化的な営為は、多くの場合に宗教的な信仰と結びついています。

 また、初期の人類学者たちは現存する「未開部族」の人々の生活習慣や社会のなかに、人類の文化の原初の姿が残されていると考えました。彼らはさまざまな古記録や多彩な地域への旅行記録探検日誌などを頼りに人類の文化の起源と進化を明らかにしようとします。

 また、人類学の営みが深化すると文献記録を頼りにするばかりではなく、実際に現存する「未開社会」の人々と生活をともにし、異なる文化や社会、生活習慣などを自ら体験し、より深い理解に到達しようとする研究者たちが登場してきます。

 アームチェアからフィールドワークへ、としばしば言われるように、彼らは実際に研究対象である地域の人々と生活をともにし、未開社会の構造とその文化的・社会的行為との関係について、より深く理解しようとしました。

 さらには、異文化や異質な社会のシステムの総合的な理解を深める研究は、文化や思想、社会体制などの違いを背景にして国と国の間の緊張が高まり、戦争と紛争の絶えなかった20世紀の世界において、極めて重要な学問となります。

 文化人類学的な探求は、未開社会の人々の生活様式を明らかにするレベルから、日本やインドネシアといった国家単位や東洋と西洋といった文化圏単位において、宗教的象徴体系と文化・社会システムとの相関関係を問う学問へと発展してきました。こうした、文化研究としての宗教研究は、現在の宗教学の主流といえる研究分野になっています。


人類文化の起源と進化

 まず、人類の文化の起源と進化を問う、初期の文化人類学の研究では、しばしば「文化人類学の父」と称される、エドワード・バーネット・タイラー『原始文化』(Primitive Culture)1871年に刊行されます。

 



 本書のなかでタイラーは、文化について「文化あるいは文明とは、そのひろい民族誌学上の意味で理解されているところでは、社会の成員としての人間(man)によって獲得された知識、信条、芸術、法、道徳、慣習や、他のいろいろな能力や習性(habits)を含む複雑な総体である」と定義し、人類の文化の発展と起源を問うという、壮大な営みを行ないます。長い間、50年以上前に日本語訳された抄訳しかなかったのですが、ようやく完全な日本語訳が刊行されました。古典中の古典の一つですので、ぜひ手に取ってみてください。

 タイラーは、人類の文化の発展段階を考察するための中心的な題材を宗教に求めて、アニミズム(animism)を宗教の基盤となる信仰であると考えます。アニミズムは、生物・無機物を問わないすべてのものに霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方のことです。霊魂というと、少しオカルト的な響きを感じますが、タイラーのアニミズムの語源は、ラテン語のアニマ(anima)であり、気息・霊魂・生命を意味する言葉です。

 つまり、自然界のさまざまな存在に「生命」を感得する感性「アニミズム」なのであって、これは文化や社会や生きる時代の違いに関わらず、どの人間にも共通する感性の一つなのではないでしょうか。

 もし、この感性がなければ、自分以外の人や動物に「生命」があることを認めることはできないでしょう。さらには、人間や動物以外の植物や自然の事物、さらには道具や人形のような物にも「生命」と感じる習俗は、世界中のあらゆる文化伝統に普遍的に見られます。



 文化の発展段階にともなって、素朴なアニミズムが一神教的な信仰に昇華していくとするタイラーの進化論的な見解は、文化の相対性を前提とする今日の文化人類学の方法とは相容れません。しかし、それでも「生命」を感得する感性を人間の本質の一つであるとして、この人間の本性と宗教の不可分の関係性を指摘したタイラーの宗教論は、現在でも重要性を失っていません。

 タイラーの弟子のマレットは、師説に異論を唱えて「宗教の出発点」は、アニミズムよりも前の段階にある、漠然とした力/「マナ」の観念にあるとし、自らの説を「アニマティズム」と呼んで、タブー(禁忌)や呪術の研究を重視したプレアニミズム論を展開します。とはいえ、こうした動きもまた、タイラーの「アニミズム」論から派生したものです。


文化的行為としての呪術と儀礼

 文化的行為としての呪術や儀礼の研究では、ジェームズ・フレイザー『金枝篇』(1890~1936)が有名です。タイラーの影響を受けたフレイザーは、その生涯を研究に捧げてヨーロッパ各地から世界中の古伝説や古典史料を渉猟し、大著である『金枝篇』を刊行します。

 40年以上も増補・改訂をくり返し、フレイザーの死の直前まで執筆が続けられた、文字通りの大著を簡単に説明することは不可能ですが、日本語版の第1巻に治められている呪術の分析は、宗教学を学ぶ人にとっては必読の理論です。ぜひ、図書館や書店で手に取ってみて下さい。



 フレイザーは、呪術は宗教ではなくて「未開の科学」であるとし、近代科学とは異なる「観念連合」にもとづいて事物の関係を説明する体系であると考えます。こうして、迷信と宗教との関係を進化論的な図式から解放しました。

 宗教は、洗練された新しい呪術ではないのです。接触(感染)呪術模倣(類感)呪術という類型を使って説明される、未開の科学としての呪術の論理の説明は、現代における「知の枠組み」を問い直すうえでも極めて興味深い内容になっています。ちなみに、模倣(類感)呪術は、類似のものは相互に影響し合う、という観念連合にもとづきます。例えば、ヒトガタの人形に釘や針を刺す行為などです。

 その一方で、接触(感染)呪術は、一度関係を持ったものはその関係を持続する、という観念連合にもとづきます。たとえば、呪いをかける対象が触ったり、身に付けていたものや身体の一部(爪や毛髪)を入れた人形に危害を加える、といった行為です。こうした論理は、現在ではもう合理的ではありません。しかし、少なくともある時代のある地域では、合理的に説明をできる行為であった、とフレーザーは考えました。

 キリスト教以前のヨーロッパの基層文明を探求した、フレイザーの壮大な研究誌は世界中の人々を魅了し、日本では柳田国男のような人々に大きな影響を及ぼして「民俗学」という学問を生みだします。



 また、フレイザーとは違って、原始社会と文明社会の根本的な差異を強調した研究では、レヴィ・ブリュール『原始的心性』(1922)があります。異文化の理解が進んだ現在では、あまり取り入れられない考え方ですが、その一方で異文化の世界の異質性を重視する視座は、人間の世界構築の方法の多様性に目を向ける文化人類学の新しい展開に影響を及ぼすことになりました。➡E.E エヴァンズ=プリチャードなど

 また、同時期の重要な業績の一つに、アルノルト・ファン・ヘネップ『通過儀礼』(1909)があります。ファン・ヘネップは、人の一生における誕生、成人、結婚、死亡などの各段階を通過する際に行なわれる儀礼「通過儀礼」と定義し、これらはある社会的地位や役割が他のものに変ることを保障する意味をもつとします。



 これらの儀礼は一般に共通の特徴を持っており、儀礼を受ける者は多くの場合に集団から一定期間隔離されて、生と死の葛藤が象徴的に表現される祭礼を行ない、その後新しい衣服や名前が与えらます。こうした「死と再生」を象徴する典型的な加入礼の一つが、現在ではアトラクションとなっているバンジー・ジャンプです。


社会構造と文化的行為の相関関係

 タイラーやフレイザーによって確立された、未開社会の文化の諸研究に根本的な変革をもたらしたのは、ブロニスワフ・マリノフスキでした。マリノフスキは、文化の起源を問う従来の進化主義的な傾向の強い文化人類学と決別して、機能主義と呼ばれる異文化理解の新たなアプローチを生みだします。

 第一次世界大戦のために南半球に取り残されたマリノフスキは、パプアニューギニアのトロブリアンド諸島の人々と長期間に亘って生活をともにし、異文化理解の研究に「フィールドワーク(参与観察)」と呼ばれる新たな手法を導入します。

「そこ」で起きている事柄の当事者にとっての意味は、「そこ」に生きる人々と生活をともにすることでしか理解できません。彼らともに生活するうちにマリノフスキは、トロブリアンド諸島の人々の儀礼や社会的慣習には、これまで外部の人々が外からの観察によって解釈していた意味とは、まったく異なる機能や役割が存在することを明らかにしました。



 マリノフスキ以降の人類学は、アーム・チェアーの文献学者ではなく、異文化社会に身を置くフィールド・ワーカーが担うことになります。なかでも、同時代のラドクリフ=ブラウンは、デユルケームの影響を受けて社会的行為と社会的結合の有機的関係を明らかにしようとし、独自の社会構造論を長期にわたるフィールド・ワークを通して検証します。



 マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』と同年に刊行された『アンダマン島民』(1922)は、社会人類学の古典になりました。社会関係と社会構造の関連を分析するラドクリフ=ブラウンの手法は、さらに多くの人類学者たちに継承され、構造主義のような現代思想の新たな潮流に影響を及ぼしていきます。

 これらの文化人類学者とは一線画しますが、タイラーやフレイザーの人類文化の起源を辿る研究を発展させた人に、ロバートソン・スミスがいます。スミスは、主著である『セム族の宗教』(1889)において、キリスト教の外套(ベール)の下にある民俗信仰レベルの宗教儀礼や習俗等の歴史的分析を行ないました。こうした手法は、日本の宗教研究者たちの仏教民俗や先祖祭祀の研究にも活かされています。


宗教的象徴体系と文化・社会システム

 人類の文化と社会、宗教の起源を探求する文化人類学は、異文化特定社会の基本構造を解明し、他者の行為の意味を解釈する文化研究として発展していきまます。こうしたなかで、宗教研究は宗教的象徴体系を通して、特定の文化・社会のシステムを解明する学問として、その研究範囲を広げていきました。



 代表的な研究者では、『文化の解釈学』というタイトルの著書も著しているクリフォード・ギアーツが有名です。ギアーツは『ジャワの宗教(The Religion of Java)』(1960)において、トロブリアンド諸島のような狭い社会ではなく、インドネシアのように複雑で大きな社会においても宗教的な象徴体系をもとにした分析が可能であり、宗教文化研究にもとづく異文化理解が可能であることを示しました。



 二度の世界大戦によって疲弊し、冷戦構造のもとで人類存亡の危機に直面していた20世紀後半の世界にとって、異なる文化や社会間の相互理解や国際交流の重要性は、かつてないほどに高まります。他者の理解に寄与する文化研究は、こののち宗教研究の主流になっていきました。

 日本に関するものでは、ルース・ベネデイクト『菊と刀』(1946)において展開された、「文化の型」の議論が有名です。ここでは、日本文化の特徴はキリスト教的な「罪の文化」に対比される「恥の文化」であるとされています。



 また、ロバート・ベラー『破られた契約(The Broken Covenant)』(1975)などで論じたアメリカの「市民宗教(Civil Religion)」の分析などでは、宗教研究をもとにした文明論や文化研究が、アメリカ社会のあり方に対する政治的な提言にまで昇華されました。



 こうした文化研究としての宗教研究は、現在ではさらに多方面に広がっています。私自身も「日本の近代」をテーマにした、同様の研究に取り組む研究者の一人です。でも、自分の研究まで紹介する時間の余裕はありません。

 とはいえ、今日の授業で紹介した業績は、すべて古典中の古典ですので、せめてタイトルや著者の名前くらいは覚えておいて、図書館や書店で見かけたときには、ぜひ手に取ってください。

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